著者紹介
ジェイムズ・スコットは、イェール大学の政治学者・人類学者で、東南アジア研究の第一人者です。1976年に本書を出版して以降、『ゾミア』『支配と抵抗の術』など、支配に抗う人々の実践を描いた著作を次々と発表しています。農民研究、抵抗研究の泰斗として世界的に高い評価を受けています。
学習のポイント
本書は、1930年代のビルマ(現ミャンマー)で発生した農民反乱を事例に、前資本主義社会から市場経済への移行期における農民の経済観念と抵抗の論理を分析しています。著者は、農民たちが持つ「生存維持の倫理」という独自の経済観念に着目し、これが植民地支配下での市場経済化によって侵害された結果、反乱が引き起こされたと論じています。
3つのキーコンセプト
- モーラル・エコノミー(道徳経済): 農民社会に見られる伝統的な経済観念のことで、市場原理よりも共同体の生存維持を重視する価値観を指します。「互酬性」や「生存維持の倫理」がその中核をなしています(藤田幸一『開発と農民』2003)。
- 生存維持の倫理(subsistence ethic): 農民が最低限の生活水準を確保することを最優先する価値観です。不作の際のリスク分散や、余剰の再分配などの仕組みを通じて実現されます。
- 互酬性(reciprocity): 共同体内部での相互扶助的な関係性を指し、贈与や労働交換などの形で表れます。これにより共同体全体の生存が保障されます。
重要語句の解説
・搾取の限界点:農民が許容できる収奪の上限を指す概念です。これを超えると反乱のリスクが高まります。
・パトロン-クライアント関係:保護と忠誠を交換する伝統的な社会関係です。植民地化によってこの関係が変質したことが、反乱の一因とされます(中村平治『東南アジアの政治社会学』1994)。
・道徳的怒り:経済的な搾取だけでなく、伝統的な価値観や生活様式が侵害されることへの反発を指します。
図書の評価
本書は、従来の農民反乱研究が前提としていた経済合理性の枠組みを超えて、農民独自の経済観念と倫理に光を当てた画期的な研究です。その後の農民研究や社会運動研究に大きな影響を与え、人類学的な視点を政治学研究に導入した先駆的著作としても評価されています(原洋之介『アジア経済論』2001)。
必要な関連情報
本書を理解するためには、以下の背景知識が重要です: ・19世紀後半から20世紀初頭の東南アジアにおける植民地化の過程 ・伝統的な農村社会の構造と価値観 ・世界恐慌が植民地経済に与えた影響
最新の研究動向
モーラル・エコノミー論は、現代のグローバル化における「食の正義」や「フェアトレード」の議論にも影響を与えています。また、環境問題や持続可能な開発を考える際の理論的枠組みとしても注目されています(池野旬『アジア農村発展の課題』2020)。
参考文献リスト(日本語文献)
・原洋之介『アジア経済論』NTT出版、2001年 ・中村平治『東南アジアの政治社会学』世界思想社、1994年 ・藤田幸一『開発と農民―東南アジアの農村から』岩波書店、2003年 ・池野旬『アジア農村発展の課題―持続可能な発展をめざして』明石書店、2020年 ・白石隆『東南アジアの政治と社会』NHK出版、1997年 ・永野善子『アジア経済史研究入門』東京大学出版会、2006年 ・加納啓良『東南アジア経済史』有斐閣、2001年 ・池本幸生『農民の経済―スコットの世界』世界思想社、1998年